- 沼木神社(上野町)
- 赤井山(上野町)
- 海蔵寺(上野町)
- 正覚寺(円座町)
- 米山新田(円座町)
- 桂林寺(横輪町)
- 鷲嶺水穴(矢持町下村)
- 鷲嶺観音(矢持町下村)
- 久昌寺(矢持町菖蒲)
- 覆盆子洞(矢持町菖蒲)
- 飯盛寺跡(矢持町床ノ木)
1.沼木神社(上野町)
沼木神社は、上野町地内にありますが、神社の合祀を進める国や県の施策を受け、それまで矢持・横輪・上野・神薗・円座の各村にあった神社を合わせ祀っています。
その歴史を遡ると、明治2年に八柱神社として上野村字下沖に奉祀され、同年、矢持村床木の山王社が合祀されたのを皮切りに、明治4年に円座村の八柱神社、神薗村の八柱神社、矢持村上村の熊野神社、矢持村菖蒲の八幡社、明治8年に横輪村の熊野神社、明治42年に上野村の赤井神社と、各村社が次々と合祀されました。そして、明治45年2月25日に「村社 沼木神社」として現在地に鎮座し、子孫繁栄・五穀豊穣・夫婦円満・家内安全などを叶える霊験あらたかな神社として今日に至っています。
ご祭神は、五男三女神・素盞鳴命・大山祗命・大山昨命・伊佐奈見命・鷹神天皇・火之迦具土命・赤井神・八衛彦命・八衛比売命・白山比衛命などです。
平成24年2月には第5回の式年遷宮が斎行されると共に、明治45年の鎮座以来、遷座100年という記念すべき節目の年でもありました。
その歴史を遡ると、明治2年に八柱神社として上野村字下沖に奉祀され、同年、矢持村床木の山王社が合祀されたのを皮切りに、明治4年に円座村の八柱神社、神薗村の八柱神社、矢持村上村の熊野神社、矢持村菖蒲の八幡社、明治8年に横輪村の熊野神社、明治42年に上野村の赤井神社と、各村社が次々と合祀されました。そして、明治45年2月25日に「村社 沼木神社」として現在地に鎮座し、子孫繁栄・五穀豊穣・夫婦円満・家内安全などを叶える霊験あらたかな神社として今日に至っています。
ご祭神は、五男三女神・素盞鳴命・大山祗命・大山昨命・伊佐奈見命・鷹神天皇・火之迦具土命・赤井神・八衛彦命・八衛比売命・白山比衛命などです。
平成24年2月には第5回の式年遷宮が斎行されると共に、明治45年の鎮座以来、遷座100年という記念すべき節目の年でもありました。
2.赤井神社(上野町)
上野町にある赤井山、地元の人たちは、この山に崇敬と親しみを込めて「赤井さん」と呼んでいます。
上野小学校のすぐ近くに登り口があり、赤井神社の標柱と鳥居や石灯籠が立てられているので分かりやすいです。
赤井神社の祭神は赤井神(あかいのかみ)。
本殿の脇に清水をたたえた井戸があり、水が枯渇することはないといいます。
神社庁の神社台帳にはこの宮の由緒について「熊野権現の元宮と云い伝へり」と記されています。
また、赤井さんは古くからお産の神様といわれています。
社叢(しゃそう)に茂るヤマモモの木はこの宮の象徴でもあり、拝殿の屋根の隅を飾る隅ぶた(飾り瓦)もモモの実をかたどっています。
古来モモの木は悪魔を払う霊木としてあがめられ、桃太郎のようなたくましい子の安産を願ったでありましょう。
上野小学校のすぐ近くに登り口があり、赤井神社の標柱と鳥居や石灯籠が立てられているので分かりやすいです。
赤井神社の祭神は赤井神(あかいのかみ)。
本殿の脇に清水をたたえた井戸があり、水が枯渇することはないといいます。
神社庁の神社台帳にはこの宮の由緒について「熊野権現の元宮と云い伝へり」と記されています。
また、赤井さんは古くからお産の神様といわれています。
社叢(しゃそう)に茂るヤマモモの木はこの宮の象徴でもあり、拝殿の屋根の隅を飾る隅ぶた(飾り瓦)もモモの実をかたどっています。
古来モモの木は悪魔を払う霊木としてあがめられ、桃太郎のようなたくましい子の安産を願ったでありましょう。
【参考文献】新聞記事(中日新聞平成18年8月12日)
3.海蔵寺(上野町)
上野町の中心に曹洞宗の「神岳山海蔵寺」が建立されています。
海蔵寺は、寛文5年(1665)に本堂が建立され、宝永2年(1705)に開基されました。
同年に観音堂が建立、元文3年(1738)に薬師堂が建立されました。
その後、幾度かの改修が行われてきましたが、平成21年(2009)6月18日早朝、火災により全焼という事態が発生しました。
その後、檀家20人で再建委員会を組織し、檀家や信徒で資金を出し合って1年半かけ、平成23年(2011)に再建をしました。
新しい本堂は、国産のケヤキを中心に使用し、旧本堂よりも15平方メートルほど広い面積となっています。
海蔵寺は、寛文5年(1665)に本堂が建立され、宝永2年(1705)に開基されました。
同年に観音堂が建立、元文3年(1738)に薬師堂が建立されました。
その後、幾度かの改修が行われてきましたが、平成21年(2009)6月18日早朝、火災により全焼という事態が発生しました。
その後、檀家20人で再建委員会を組織し、檀家や信徒で資金を出し合って1年半かけ、平成23年(2011)に再建をしました。
新しい本堂は、国産のケヤキを中心に使用し、旧本堂よりも15平方メートルほど広い面積となっています。
4.正覚寺(円座町)
円座町の中心に釈迦如来坐像を本尊とした曹洞宗の「円福山正覚寺」が建立されています。
正覚寺は、和歌山藩円座組の大庄屋であった米山家9代の米山多右衛門宗持(むねもち)(1790~1839)が文化8年(1811)に開基、広泰寺14世の大巌和尚が開山と伝えられています。
もと大智庵といいましたが、元治2年(1865)正覚寺と改められました。
なお、境内では、三重県指定の無形民俗文化財である羯鼓踊り(かんこおどり)が、毎年8月15日に行われています。
正覚寺は、和歌山藩円座組の大庄屋であった米山家9代の米山多右衛門宗持(むねもち)(1790~1839)が文化8年(1811)に開基、広泰寺14世の大巌和尚が開山と伝えられています。
もと大智庵といいましたが、元治2年(1865)正覚寺と改められました。
なお、境内では、三重県指定の無形民俗文化財である羯鼓踊り(かんこおどり)が、毎年8月15日に行われています。
5.米山新田(円座町)
昔、現在の円座町は、宮川より少し高台のため水利が悪く、ほとんど荒地となっていました。紀州和歌山藩田丸(たまる)代官所支配の、円座組大庄屋であった米山家4世・宗隆(むねたか)(1621~1702)は、元禄2年(1689)同村上野の渓谷より、延長40余町(約4km)の水路を起工、同9年竣工しました。これにより良田7町歩(約7ha)を得ることができました。 さらに米山家9世・宗持(むねもち)(1790~1839)は、その古溝が次第に廃絶しようとするのをみて、祖先の志を重んじ、文政12年(1829)同村横輪の横輪川より延長70余町(約7.6km)の水路を開きました。新田10町余、廃田27町余に灌漑しました。 しかし、宗持はこの工事の借財返却の責を負って、天保13年(1842)自刃して果てました。借財の完済は明治9年(1876)に及びました。 円座村墾田碑は、紀州和歌山藩最終藩主徳川茂承(もちつぐ)の篆額(てんがく)、矢土錦山(きんざん)撰文、巌谷一六(いわやいちろく)書で明治18年(1885)に建立されました。 なお、米山新田は昭和48年(1973)に伊勢市の史跡として指定されました。 また、碑の横には横輪町に縁があることから、横輪桜が植樹され見事な花を春に咲かせています。
6.桂林寺(横輪町)
横輪町の中心に阿弥陀如来立像を本尊とした「弘化山桂林寺」が建立されています。現在の桂林寺は、文政5年(1822)に中興の祖解脱上人が建設し、開山とされています。境内には阿弥陀如来立像を安置した本堂、十一面観音を安置した大悲堂、梵鐘堂があります。一方、横輪町は南北に山が連なっているため、特に冬の西風がビル風のような、地元では「横輪風」と呼ばれる強風となって、谷あいから激しく吹き抜けます。この「横輪風」を防ぐために「石積み」の技術が発達しました。特に桂林寺の石積みは見事で伊勢志摩地域でも最大規模といわれています。桂林寺8代法雲上人の時、嘉永元年(1848)と同7年(1854)の2回にわたり、小川谷火打石の石工安造(やすぞう)が人夫(延べ1,300人余)を投じて築いたと古記に記され、寺の石垣の中央上り口正面に紀年銘を彫った積み石を確認できます。また、安造も桂林寺の石垣には得心をしたとみえ、東側袖垣の上部の石に「石工安造」の銘を刻んでいます。このように紀年銘や作者の名が刻まれている江戸時代末期の石垣は、この地方では例がないとされています。桂林寺の石垣は安政元年(1854)の大地震にも異常がなく、以来、今日に至っています。
7.鷲嶺水穴(矢持町下村)
外宮のほぼ南約7kmに鷲嶺(548m)があります。
その南南東約1kmの南嶺の標高230m地点、矢持町下村に水穴があります。
秩父古生層に属するこの地域には、覆盆子洞や未調査の洞穴があります。
いずれも砂岩中のレンズ状石灰岩内に生成されたもので、100万年ないし300万年を経ていると推定されています。
水穴洞窟は古くから神聖視されていて、入口には注連縄が張られています。
奥行300m以上あり、多くの支洞に分岐しています。
洞内には石筍・鍾乳石の跡形があり、清水が流出している個所もあります。
また、山頂付近には、鷲嶺観音があります。
なお、「鷲嶺の水穴」は昭和40年(1965)に三重県の天然記念物として指定されました。
その南南東約1kmの南嶺の標高230m地点、矢持町下村に水穴があります。
秩父古生層に属するこの地域には、覆盆子洞や未調査の洞穴があります。
いずれも砂岩中のレンズ状石灰岩内に生成されたもので、100万年ないし300万年を経ていると推定されています。
水穴洞窟は古くから神聖視されていて、入口には注連縄が張られています。
奥行300m以上あり、多くの支洞に分岐しています。
洞内には石筍・鍾乳石の跡形があり、清水が流出している個所もあります。
また、山頂付近には、鷲嶺観音があります。
なお、「鷲嶺の水穴」は昭和40年(1965)に三重県の天然記念物として指定されました。
【参考文献】新聞記事(中日新聞平成22年9月11日)
8.鷲嶺観音(矢持町下村)
矢持町下村から望むことができる海抜548mの鷲嶺は、吉川英治著の「宮本武蔵」にも登場することでも有名ですが、山頂近くにあるのが、平知盛が祀ったといわれる「鷲嶺観音」です。
この観音は壇ノ浦に向かって建てられており、平氏の冥福を祈っていると伝えられています。
この観音は壇ノ浦に向かって建てられており、平氏の冥福を祈っていると伝えられています。
【参考文献】新聞記事(中日新聞平成19年2月17日)
9.久昌寺(矢持町菖蒲)
壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平知盛は自害したとされています。
しかし、この地域には、平知盛は平家の再興を願い、伊勢平氏の所縁により外宮の長官・横地光忠の保護を受け、前山から険しい鷲嶺(しゅうれい)を越え、伊勢市矢持町周辺に落ち延び、再起をはかるために隠れ住んだと伝えられています。
墓地に御堂をたて知盛の菩提を弔ったのが知盛山久昌寺で、寺伝によると建久元年(1190)平知盛の草創とされ、本尊である阿弥陀如来像(重要文化財)の胸板裏には、承久3年(1221)の墨書銘があります。
しかし、この地域には、平知盛は平家の再興を願い、伊勢平氏の所縁により外宮の長官・横地光忠の保護を受け、前山から険しい鷲嶺(しゅうれい)を越え、伊勢市矢持町周辺に落ち延び、再起をはかるために隠れ住んだと伝えられています。
墓地に御堂をたて知盛の菩提を弔ったのが知盛山久昌寺で、寺伝によると建久元年(1190)平知盛の草創とされ、本尊である阿弥陀如来像(重要文化財)の胸板裏には、承久3年(1221)の墨書銘があります。
【参考文献】新聞記事(中日新聞平成18年12月2日)
10.覆盆子洞(矢持町菖蒲)
矢持町菖蒲にある久昌寺から徒歩で約1.7km、標高200m地点、辰ヶ峠への道から覆盆子橋を渡り、谷を遡った山中に覆盆子洞があります。
この洞窟は、今から約200万年前頃の鮮新世後期から更新世前紀頃にかけて、主にチャートや砂岩から成る秩父層群の地層中に介在するレンズ状の石灰岩層等を、地下水が溶食して出来上がったものです。
平家の落武者が隠れ住んだという伝説もあり、また覆盆子(いちご)は一宇郷(いちうごう)の語源ともいわれています。
なお、「覆盆子洞」は昭和43年(1968)に三重県の天然記念物として指定されました。
この洞窟は、今から約200万年前頃の鮮新世後期から更新世前紀頃にかけて、主にチャートや砂岩から成る秩父層群の地層中に介在するレンズ状の石灰岩層等を、地下水が溶食して出来上がったものです。
平家の落武者が隠れ住んだという伝説もあり、また覆盆子(いちご)は一宇郷(いちうごう)の語源ともいわれています。
なお、「覆盆子洞」は昭和43年(1968)に三重県の天然記念物として指定されました。
11.飯盛寺跡(矢持町床ノ木)
矢持町床ノ木から南伊勢町切原に至る旧道である切原峠。
床ノ木から歩いて1kmほどで山頂に至りますが、標高366mの木立の茂みの中に今は無き寺屋敷の石垣などが見られます。
本堂の跡と思われる場所には、八大竜王が祀られており、高所であるにも弁財天の池は今も水が沸き出でています。
伝承によれば、聖徳太子が皇大神宮の裏鬼門に当たるこの地に、神宮外護のため、飯森寺を興したといわれています。
明治期に入ると、この寺も廃仏毀釈の風潮に抗しきれずに衰退し、台風による本堂の崩壊等があり、明治15年に現在の南伊勢町切原に小堂を建てて移転をして今に至っています。
床ノ木から歩いて1kmほどで山頂に至りますが、標高366mの木立の茂みの中に今は無き寺屋敷の石垣などが見られます。
本堂の跡と思われる場所には、八大竜王が祀られており、高所であるにも弁財天の池は今も水が沸き出でています。
伝承によれば、聖徳太子が皇大神宮の裏鬼門に当たるこの地に、神宮外護のため、飯森寺を興したといわれています。
明治期に入ると、この寺も廃仏毀釈の風潮に抗しきれずに衰退し、台風による本堂の崩壊等があり、明治15年に現在の南伊勢町切原に小堂を建てて移転をして今に至っています。
【参考文献】新聞記事(中日新聞平成17年7月23日)